尾飛良幸には、3人の大切な音楽の先生がいました
- 尾飛良幸DMT

- 8月8日
- 読了時間: 6分
僕の人生には、三人の大切な音楽の先生がいます。
一人は、高校時代の合唱部の顧問だった内山哲先生。 歌声の素晴らしさ。合唱の楽しさ。音楽の楽しさ。そして発声の基本。
僕の音楽の土台を、たくさん作ってくれた先生です

もう一人は、20代の頃に音楽スクールで出会った氏家隆雄先生。
音楽のことはもちろん、人としてどう生きるか。人の心について。心理学や精神的なことも含めて、本当に多くのことを教えていただきました。
今の僕の生き方そのものの根本を作ってくださった先生だと思っています。
そして、そのお二人より前に出会っていたのが、中村太郎先生でした。
今日は、その中村先生のことを書いてみたいと思います。

小学4年生から高校2年生まで
中村先生は、僕が小学4年生から高校2年生まで、バイオリンを教えてくださった先生です。
母が地元の楽器店かどこかで、
「子どもにバイオリンを教えてくれる先生はいませんか」
と尋ねて、紹介してもらったのが始まりだったと思います。
僕が出会った頃、先生はすでに70代でした。
レッスンをしていたのは、とても静かな住宅街にある、小さくて素敵なお宅でした。
今思い出すと、ちょっとジブリの映画に出てきそうな空気があったんですよね。
部屋にはアップライトピアノが一台、
小さなグランドピアノが一台。
レコードプレーヤー。
ソファー。
上品なテーブルと椅子。
譜面台。
そして、たくさんの本と楽譜。
大きな窓の向こうには木々があり、その先に崖下の住宅街と青空が広がっていました。
僕にとって、あの部屋そのものが、音楽の世界だったような気がします。
「音楽家にはなるな」
先生はよく、
「音楽家にはなるな」
と言っていました。
理由は、
「音楽家になると貧乏になるから」
だったそうです。
僕だけではなく、たくさんの教え子にもそう話していたと聞きました。
当時の僕は、その言葉の意味を深く考えていませんでした。
でも自分が今、音楽を仕事にして生きていると、その言葉を思い出すことがあります。
先生自身が音楽の厳しさを、よく知っていたからこその言葉だったのかもしれません。
ただ、先生は決して音楽そのものを否定してはいませんでした。
むしろ逆でした。
先生は、音楽をとても深く愛していた。
言葉ではなく、音で教えてくれた
中村先生のレッスンは、とてもシンプルでした。
楽譜をきちんと演奏する。
何度も繰り返す。
また弾く。
そんな時間が多かったと思います。
でも、その繰り返しの中で、僕は音楽の基本中の基本を教えてもらいました。
それは、
歌心
です。
ある日、自分が弾いていたバイオリンの音が、突然変わった瞬間がありました。
もちろん、実際の音そのものが急に上手くなったわけではないと思います。
でも、それまでただの音の羅列だったものに、急に物語が見えた。
景色が見えた。
音が、ただの聴覚情報ではなくなったんです。
あの瞬間を、今でもはっきり覚えています。
今思えば、
「あれが歌心だったんだな」
と思います。
間違えても、美しい音だった
先生はご高齢だったこともあり、僕が習っていた頃には、指が動きにくかったり、目が見えにくくなっていたりしたのだと思います。
ピアノを弾いていても、バイオリンを弾いていても、途中で止まったり、間違えたりすることがありました。
でも僕は、先生が弾く音が好きでした。
とても優しくて、深みがある。
技術的に完璧かどうかとは、まったく違うところにある音でした。
なぜあんな音だったのか。
今でも本当のところは分かりません。
でも僕は、先生の心根の優しさが、そのまま音になっていたんじゃないかと思っています。
先生自身の作品を聴かせてもらったこと
僕は、決して熱心な生徒ではありませんでした。
練習もあまりしなかった。
ダメな生徒だったと思います。
それでも先生は、いろいろな話をしてくれました。
何度か、ご自身が作曲した作品が収録されたレコードを聴かせてくれたこともあります。
その時、作品について何か話してくださったはずです。
残念ながら、当時の僕にはその意味がよく分かりませんでした。
何を話してくれたかも、ほとんど覚えていません。
ただ、
先生が流行を追うのではなく、音楽のもっと奥にある、本質的なものを見ていた。
そのことだけは、子どもながらに感じていました。
洋楽と、日本人としての音楽
当時の僕は、青春真っ只中でした。
洋楽のヒット曲をたくさん聴いて、
「これが今、一番かっこいい音楽だ」
と思っていました。
その時代に聴いた音楽は、今でも僕の大切なルーツです。
でも同時に、中村先生の音楽を通して、
日本人としての感覚。
日本人としてのアイデンティティ。
流行とは違うところにある、美しさ。
そういう世界にも触れていたんですよね。
今思うと、この二つを同時に体験していたことは、僕にとってとても大きかったと思います。
まさか、高校の校歌まで
中村先生とのご縁には、不思議なこともありました。
僕が高校へ進学した時、その学校の校歌が、
なんと中村先生の作曲だったんです。
これには本当に驚きました。
先生のもとを離れたあとも、先生の音楽の中に自分がいる。
そんな不思議な縁を感じました。
先生のピアノソナタとの再会
中村先生は、2002年に亡くなられていたそうです。
僕が30歳を少し過ぎた頃です。
その頃はもう先生とお会いすることもなく、
「先生、元気かな」
と思うことはあっても、その後どうされていたのか知りませんでした。
今回、改めて調べる中で、そのことを知りました。
そして先日、YouTubeで偶然、中村先生のピアノソナタを演奏している動画を見つけました。
先生の作品は、今ではなかなか聴くことができません。
だから見つけた瞬間、とてもうれしくて、すぐにコメントを書きました。
今、改めて聴いてみると、ものすごい作品です。
優しさがある。
深さがある。
そして、
「先生って、本当にものすごい才能を持った人だったんだな」
と、今になって分かる。
その先生が僕に、技術より先に、
音楽にとって本当に大事なものを伝えようとしてくれていた。
そう思ったら、涙が出るような気持ちになりました。
受け継ぐということ
僕は、中村先生のような作品は作れません。
ジャンルも違うし、僕には僕の音楽があります。
でも、先生から受け取ったものは、確実に今の僕の中にあります。
音を並べるのではなく、物語をつくること。
上手さだけではなく、歌心を大切にすること。
流行だけを見るのではなく、自分が本当に美しいと思う音を探すこと。
そして、その音を次の誰かへ渡していくこと。
僕は僕のできる音楽制作の中で、
先生から受け継いだものを、これからも使っていきたいと思います。
8月8日の午後。
久しぶりに先生の音楽を聴きながら、
そんなことを、しみじみ思いました。
中村先生のピアノソナタの演奏動画を、下に貼っておきます。
ぜひ聴いてみてください。







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